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南アルプス編③(9/9~9/10)

  • 9/9 兎岳避難小屋~赤石岳~荒川小屋

  • 9/10 荒川小屋~中岳・悪沢岳~千枚小屋

  • 『「足るを知る」ということについて』

 9月9日  兎岳避難小屋~赤石岳~荒川小屋

 

日の出とともに歩き出そうと3時半に起床。食事を済ませ小屋から出ると西の空にまぶしい何かが!満月でした、特大の。電球がぶら下がっているのかと思いました。

 

ド快晴の空のもと赤石岳を目指して稜線を進みます。青々としたハイマツ、稜線の曲線が美しい。兎岳を出発して間もなく最初のピークに到達。標識を確認すると「小兎岳」の文字。兎岳のとなりが小ウサギ岳ってかわいすぎるやないか。

かっちょいい大沢岳を越え赤石岳へ。美しい百間平、山頂への長いトラバースを越えて赤石岳に到着。昼前でしたがもうこの時点でバテバテ。体力がないのはもちろんなのですが、食糧プランの稚拙さも一因だったようです。

荷物が重くなるのを恐れるあまり、食料を削り過ぎていました。「これだけあれば食いつなげるだろう」と甘く見積もった量では全く足りず、エネルギーが足りなかったために足が動かなかったようです。しかしながらこの反省をもとに、後の中央・北アルプス縦走ではかなり改善することができました。日々精進であります。

 

赤石岳頂上のベンチで赤石岳避難小屋のおっちゃんと少しお話。

兎岳避難小屋から来たというと、おっちゃんは開口一番「…出なかったか?」と一言。

え...、あそこはおばけが出るのか...、と一瞬声を失う私。

すると「出なかった?ネズミ?」とニヤニヤして続けるおっちゃん。完全に遊ばれました。ネズミは出なかったよ。おばけも。

また、数日前に白樺荘で千枚小屋のスタッフさんに出会ったものの、日程の関係もあり千枚小屋には立ち寄らないつもりだとおっちゃんに話すと、「せっかくだろ、行ってやれ。そのほうが喜ぶだろ。」とかっこいいお言葉で諭されました。南アルプスの小屋は人情ある人ばかりだなぁと一人感銘を受け、翌日言われた通り千枚小屋に行くために、この日は荒川小屋で泊まることに。

 

荒川小屋に向けて稜線を歩いていると、向かいから大きな麦藁帽をかぶった10人程のパーティが。これは植村直巳さんの『青春を山に賭けて』で読んだ明大山岳部の服装では!?と思い尋ねると、案の定、明大のパーティでした。大きな帽子やザックにくくり付けた大きな鍋などなど、部の歴史を感じさせる出で立ちにちょっとしびれました。

大聖寺平でT君に遭遇し言葉を交わして荒川小屋へ。

赤石避難小屋のおっちゃんが、「荒川から見る朝日はいいぞ。」と言っていたので朝日がよく見えそうな場所を選んでテントを設営。テン場にいた富山大ワンゲルサークルのにぎやかで楽しげな話し声を羨ましく思いながら就寝。

余談ですが、荒川小屋の大判焼きはすごくおいしい。

 

 9月10日 荒川小屋~中岳・悪沢岳~千枚小屋

 

絶好の日の出スポットと聞いた荒川小屋でしたが、残念ながらガスで日の出は拝めず。しかし次第にガスも晴れ、歩き出すころには青空に。

まずは荒川中岳へ。南に大きく開けた谷を登っていきます。南向きの斜面には太陽の光をいっぱいに浴びた花々が咲き誇り、風に乗って優雅に舞い飛ぶ鳥たちの姿が。ここは楽園だろうか!なんて思いながら歩きます。

 

中岳頂上からは360°の大展望!毎日天候に恵まれ素晴らしい景色を見られることに感謝しつつ眺望に元気をもらって悪沢岳へ。

悪沢岳は文字通り“悪い”山頂。大きな岩がゴロゴロころがる荒々しい印象です。文字通りまん丸の山頂をした丸山と岩の千枚岳を越えて千枚小屋へ。千枚小屋へと続く道はハイマツやダケカンバのきれいな林で、木々の作り出す自然のアーチをくぐって歩く楽しい小径です。

 

千枚小屋にて先日白樺荘で出会ったお姉さんと再会。小屋でたらふく夕飯を食べ、スタッフさんの宴に図々しくもお邪魔して楽しくお話。おいしいお酒を飲んでみんなで山の話をする、最高の時間でした。その中には南米アコンカグアへ行くという方も…やはり山小屋にいる人はスケールがでかいなあ…。

お腹も心も満たされて、シラビソの大木に囲まれたテン場に戻り就寝。

どうやらこのテン場ではよくキツネが出るそうです。テントに食糧を置いて離れると、テントを破って食糧をかっさらっていくこともあるようなので、ご注意を。

『「足るを知る」ということについて』

 

さて、旅が始まって1週間と少し。

その間絶えず「足るを知る」ということが頭を巡っていました。それはきっと、旅に出るにあたって常に自分の背負う「荷物」を意識せざるを得なかったことによるのだと思います。出発前には「Tシャツは何枚要るか、パンツは、タオルは…」とあれこれ悩んでいましたし、歩き出してからは食糧や水をどれだけ持つかが大きな問題でした。

 

つまり知らず知らずのうちに、「自分に必要なモノと量」についてずっと考えていたわけです。そして「持ち物は自分で背負っている荷物だけ」と、かなりモノが限られた生活をする中で、普段の暮らしがあまりに「過剰」なものであると気付かされました。

 

たとえば、お風呂。

ほとんどの人は毎日お風呂に入ると思うのですが、山ではお風呂に入ることは出来ません。そこで私は毎日テント場に着くと、沢の水で濡らした手ぬぐいで身体を拭き、お風呂代わりにしていました。

 

そしてそれがこの上なく気持ち良いのです。手ぬぐいで汗を拭いたときのひんやりとした爽快感と、一日歩いたことによる適度な疲労。たったこれだけのことで一日が報われるような充足感を得られるのでした。

 

 「なんだ、身体を拭くだけでも十分じゃないか」

 

それまで毎日風呂に入ることを「当たり前」だと思っていましたが、風呂に入れなくても手ぬぐいと山を歩いた満足感があれば十分。毎日毎日、大量の水とガスや電気を消費してまで風呂に入ることもないんだなと、ふと思ったのでした。

 

そうして身の回りを改めて見てみると、「”当たり前”だからやっている習慣」や「”当たり前”だから買っているモノ」がどんなに多いことか。

私の生活のほとんどは「必要」よりも、「当たり前」や「見栄」によってできているのではないかと思うほど。

 

ただ、そうした普段の生活の「過剰さ」に気が付き嫌気がさすと同時に、なんだか身体が軽くなるような思いもしました。

なぜなら日々の生活や自分自身を見直し、「当たり前」や「見栄」を取っ払って、自分にとって本当に必要で大切なモノ・コトを中心に据えることができれば、よりシンプルで肩の力の抜けた生活ができるように思えたからです。

「きっと私には最低限の生活と、大好きな自然と触れ合う時間さえあればいい」。そんな気がしました。

 

一人一人が自分に必要なモノと量を理解し過剰な消費をしないこと、無理のない範囲で「足るを知った」楽しく丁寧な生活をおくること。

 

そうすることができればこの社会はもっと穏やかで住みやすく、地球にも負荷をかけすぎないものになるのではないかと、ふと思うのでありました。

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